誤った解釈で世間に浸透している言葉や表現に対して思うこと
「メラビアンの法則」ついての記事をアップしようと思っていたのですが、「余談」が膨らんで本題を圧迫しそうになったので、今回はスピンオフということで、余談で記事を一本。
誤用だらけの言葉や表現
世間には、間違って浸透している言葉や表現が溢れかえっています。
「情けは人の為ならず」「秋茄子は嫁に食わすな」「地震雷火事おやじ」などなど。
ちなみに、本来の意味はこの通りです。
情けは人の為ならず
人に情けをかけると回り回って誰かが自分の事を助けてくれる。
秋茄子は嫁に食わすな
諸説あるようです。秋茄子の成分が毒性をもっているので、特に妊娠中の大事な嫁に食べさせてはならない。
地震雷火事おやじ
「おやじ」は「親父」ではなく、「おおやじ」⇒「台風」という意味。
これらはなぜ、間違った解釈にもかかわらず世間に浸透したのでしょうか。
私の考えはこうです。「間違った解釈の方が、本来の解釈よりも説得力がある」
「情けは人の為にならない」というは事実です。
「姑が嫁をいじめる」のも事実です。
「父親が怖い」のも事実ですよね。
また、「地震雷火事おやじ」については見事に4段落ちになっています。
間違った解釈とはいえ、やはり、どれも納得値が高いです。
「メラビアンの法則」も有名な誤用の一つ
実は、「メラビアンの法則」も、間違った解釈で浸透したコトバの一つです。
メラビアンの法則は、「人は見た目が一番重要」といった解釈が一般化しています。
これは、人が視覚と聴覚からの情報を中心に相手の感情を読み取るという実験結果からきています。
しかし、これには条件があります。
「相手の喜怒哀楽を読み取るのが難しい時」という条件です。
相手が何を考えているかわからない時、人は視覚と聴覚からの情報を中心に相手の感情を読み取ろうとする傾向があるといった意味です。
「顔は笑っているのに声は怒っている、どっちだろう」という「条件」があってはじめて成立するはずの法則が、「条件なし」で世間に浸透してしまったのです。
誤用や言葉の乱れをどう捉えるか
昨今、言葉の乱れが社会問題化しています。
例えば、「ら抜き言葉」が問題視されるようになってから、もうずいぶん経ちますよね。
ら抜き言葉は、有識者や専門家が問題提起して何か変わったでしょうか。
声高に叫んだところで効果はなく、ますます一般化していますよね。
「言葉は生き物」という表現があります。
生き物なのであれば、どう扱うべきなのでしょう。
扱いによっては乱れを助長することになりますし、逆に、本来の使い方に固執しては、時代に合わずに死語と化すかもしれません。
メラビアンの法則についても、「実は間違った使い方をしている」と問題提起しているサイトを多く見かけます。
しかし、いくら問題提起したからといっても、私は誤った解釈が主流であり続けると思います。
正しい解釈は、誤った解釈の付帯事項としてしか認知されないのではないでしょうか。
むしろ、正しい解釈が認知され過ぎると、「なんだ、間違ってたのか」と誰もが見放して、メラビアンの法則自体が世間から消えてしまうのではないでしょうか。
やはりコトバの扱いは難しいです。ベストな答えは存在しないのでしょう。
メラビアンの法則については、私は、納得値の高さと世間への浸透度合いを考慮すれば、誤った解釈だと知った上で広めたとしても、問題もないと考えています。
実際、ビジネスシーンでは、非常に重宝されています。
まとめ
あるお坊さんの、TEDでのプレゼンを思い出しました。
「大乗仏教は仏教ではない」「日本のカレーはカレーではない」と批判されても、どちらもメイドインジャパンの「仏教」であり「カレー」なんです。
そうとしか言いようがないのです。
Reasons for religion -- a quest for inner peace ...
メラビアンの法則も同じで、例え本来の解釈と違っていたとしても、それはもう「メラビアンの法則」としか言いようがないのではないでしょうか。