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【第2回】 自分が子供の頃に関わっていた大人について、大人になった自分が評価してみた

 

多数決の場面にて

大人はみんな偉いと信じて疑わなかった子供の頃。

こんなエピソードがあった。

 

私が小学3年生の時の話。

月に1度、クラスでイベントを行っていた。

内容ついては特に制限なく、授業の1コマを使ってスポーツしたり工作したり、○○会を開いたりしていたと思う。

そして何をするかについては、ホームルームで多数決をとって決めていた。

 

あの時も、いつも通りホームルームで多数決をとることになった。

 

私は、サッカーがしたいと考えていた。

そして、サッカーがしたいと考えていたのは私だけではなかった。

他のクラスメートの約半数は、サッカーを希望していた。

しかし、誕生日会がしたいという希望も多く、最終的にはサッカーと誕生日会の一騎打ちとなった

 

いよいよ最終決戦。運命の多数決。

結果は、サッカーを選んだのは私と友人2人の計3人だけだった。

その他のクラスメートは皆、誕生日会を希望している。

当初サッカー派だった大多数が、サッカーから誕生日会に乗り換えたのだ。

 

 

多数決してただけだよね。。。

ここまでの話に問題はない。

問題はここからだ。

 

サッカーを希望した私と友人2人は、教室の後ろに立たされた。

悪いことはしていない。ただ少数派になっただけだ。

理由がわからないが、担任教師は私たち3人を立たせたのだ。

 

「絶対にサッカーやろうな」

完全アウェーの状況が、私たち3人の団結力を高めた。

 

担任教師は、私たち3人に問いかけた。

「本当にサッカーがしたいのか?」

 

私は本当にサッカーがしたかった。

クラスのみんなとサッカーをしたかったのだ。

 

そして、友人2人も同じ気持ちだと思っていた。

しかし違った。

 

「オレ、やっぱり誕生日会にするわ」

「私君ごめん。オレも誕生日会」

友人2人は、あっさりと誕生日会に乗り換えた。

 

数分前まで、我々の合言葉は「絶対サッカー」ではなかったのか。 

 

残ったのは私一人。

担任教師は、再度私に問いかけた。

「サッカーやりたいって言ってるの、私君だけだぞ。一人でやるか?どうするんだ?」

担任教師は言い放った。

 

それ以降の流れはよく覚えていない。

しかし、私のことだ。

最後の1人なるまで意地を通したクセに、フタを開ければ誕生日会を思いっきり楽しんだに違いない。

 

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担任教師を評価する 

 当時は子供だった私も、今は大人だ。

大人になった自分が、あの時の担任教師を評価したい。

 

 

子供にとって教師は絶対的な存在だ。

当時の私は、ぼんやりとした「釈然としない気持ち」の正体が何かわからなかった。

そして、何について釈然としなかったのか、掘り下げずに大人になった。

 

 大人になってこのエピソードを思い出した時、釈然としない気持ちは「サッカーができないこと」ではなく「意味不明な裁きをおこなった教師」に向けられたモノだと理解した。

 

まず、なぜ少数派となった私たち3人を教室の後ろに立たせる必要があったのだろうか。

誕生日会だと決まっている状況で、急にサッカーを主張したわけではない。

しかも、誕生日会支持者を批判したり、誕生日会に寝返った元サッカー支持者を糾弾してもいない。

 

要は、嫌がらせや邪魔をしたわけではないのだ。

手続きに則って自らの希望を主張して最後まで残った結果、惨敗しただけだ。

 

教室の後ろに立たされる意味がないのだ。

理不尽以外の何ものでもない。

 

この理不尽のおかげで、悪役扱いに耐えられなくなった友人2人は、光の速さで誕生日会へ吸収された。

そして1人になった私は、おそらく半泣きだっただろう。

それくらいプレッシャーがかかる状況だ。

 

なぜ意図的に、こんな空間を作り上げたのか。

私が教師だったら、こうはしない。

 

サッカーなんて昼休憩にいつでもできる。

しかし誕生日会は、改めて場を設けないと開催できない類のイベントだ。

きっと、あの担任教師ならば、「サッカーなんていつでもできるんだから、わざわざ時間設けてやる必要ないだろ」と考えていただろう。

その考えは間違いではない。

10人中10人が、「サッカーなんていつでもできる」と考えるはずだ。

問題は、それをどう伝えるかだ。

 

「サッカーなんていつでもできるだろ」では、伝わらない。

私が担任教師ならば、「いつでもできる」を逆手にとる。

 

「今度の昼休みに、クラスメートをいつもよりたくさん集めてサッカーしよう」

「多数決の最初の頃はサッカーやりたがっていた子が多かったから、きっとみんな参加するよ」

「だた、今回は誕生日会も人気があって多数決で決まったので、一緒に誕生日会を楽しもうよ」

「楽しい誕生日会になるように、みんなに力を貸してあげてよ」

 

まぁ、見え透いたコーチングのテクニックだ。

しかし、こんなコーチングでも、これよりマシだ。

 

「サッカーやりたいって言ってるの、私君だけだぞ。一人でやるか?どうするんだ?」

 

 

  

まとめ

あの頃、絶対的な存在だった担任教師。

私は今、あの頃の担任教師と同じ大人になった。

年齢では、あの頃の担任教師より今の私の方が上だ。

 

だからわかる。

あの担任教師は多数決というものを知らない。

 

私はそのスケープゴートにされたのだ。

 

私の周りにも、似たような人間はたくさんいる。

「アンケートをとればみんなの意見を集約できる」と信じている輩だ。

そういう者に限って、アンケートの難しさを知らないのだ。

 

「多数決」「アンケート」。

いずれも協調型の人間が好きな手法だが、もっと奥の深さを知る必要があるのではないか。

 

あの頃の担任教師。

もっと勉強してください。