ラテラルサービスの落とし穴 「気遣い」を強要しない思考
「ラテラルサービス」をご存知ですか。
リッツカールトンホテルのメンタリティを構成している価値観の一つです。
部署などの垣根を越えて、横断的に助け合う。
互いがそういったメンタリティを持つことで生まれる相乗効果。
「気遣いもできないのか」「○○するのが常識だろ」
よく耳にするセリフです。
しかし、このような価値観って、他人に求めて良いのでしょうか。
そんな話です。
風呂上がりのビールを我慢できますか
こんなエピソードがありました。
友人Aがこんな話を私にしました。
「この間、仕事仲間の家に遊びに行ったら、ちょうど風呂上がりで、あいつだけビール飲んでたからキレそうになった」
私は聞きました。
「友人Aにビールくれなかったの?」
友人A「そう、だからキレそうになった」
私「へえ、じゃあ、友人Aがいる間、ずっと仕事仲間一人だけがビール飲んでたの?」
友人A「いいや、風呂上がりに缶ビール一気飲みして終わり」
私「何して遊ぶ予定だったの?酒飲む予定だったの?」
友人A「いいや。暇だったから行っただけ」
私「だったら風呂上がりのビールくらいイイんじゃない。楽しみにしてたんだろうし。友人Aが来たから急いで飲んだかもしれないし」
友人A「自分が飲むんだったら、こっちにもくれるのが筋だろ」
私「最後の1本だったかも知れないし」
友人A「だったら相手を気遣って我慢するのが筋だろ」
私「え?え? 風呂上がりのビールを我慢するの?風呂上がりよ?ビールよ?」
気遣いって強要するものですか
気遣いは、ビジネスの場面でも重要視されています。
【引用させていただきました】
でも、私はなんだか窮屈な感じがします。
なぜなら、気を遣うことを強要されているような圧迫感があるからです。
本来、気遣いは主体的なアクションであるべきです。
自らの純粋な意思でおこなうべきです。
しかし、現実はどうでしょう。
友人、学校、クラブ、会社など、あらゆる場面で、気遣いは求められます。
「気遣いもできないのか」「もっと気遣えよ」
気遣いができるかどうかで評価されるのは、仕方がないかと思います。
だとすれば、気遣いができる人間を、プラス評価するだけで良いのではないでしょうか。
気遣いしない人間が、マイナス評価される必要はないと思います。
よく考えてみると、どちらのセリフですか
「10000円くらいでガタガタ言うのはケチだ」
コレって、お金を借りた側が言うセリフですか。
それとも、お金を貸した側のセリフですか。
「知ってるのであれば教えてあげるべきだ」
コレって、知らなかった人間が言うセリフですか。
それとも、知っている人間のセリフですか。
「忙しい時は手伝うべきだ」
コレって、忙しくしている人間が言うセリフですか。
それとも、手伝う側の人間のセリフですか。
気遣いの先に何を求めていますか
互いが互いを気遣う関係を築けたら最高です。
誰もがそう考えているのではないでしょうか。
しかし、実際は上に例示した通り、自分が逆の立場だったらやるかどうかも怪しい事柄を他人に強要しているケースが多いです。
これは気遣い合う関係ではありません。
気遣いを強要し合っている関係です。
ラテラルサービスを履き違えています。
ラテラルサービスを実現させるためには
ラテラルサービスは、互いが主体的でなければ成立しません。
どちらかが求めてはいけないのです。
そのために意識することは一つだけ。
「お客様は神様だ」
コレって、客が店員に対してサービスを強要する時に言うセリフですか。
それとも、店員が自らのサービスを向上させるための心構えとして存在するセリフですか。
互いが後者を意識できた時、ラテラルサービスは成立します。
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