「言わなくても普通わかるだろ!」では伝わらない。 言わなきゃわからない「低コンテクスト社会」が来た。
普通や常識の基準って誰が決めるの
「言わなくても普通わかるだろ!!」
「言われなきゃわかんないのか!!」
組織の中でもよく耳にする言葉だ。
先輩や上司が、仕事をミスった後輩や部下を叱る時によく使われている。
ビジネスシーンでは、当たり前すぎて敢えて指示しないことなんて山ほどある。
いちいち指示を出さなくても普通ならできることが、できていない。
当事者なら怒るだろうし、怒られても仕方がない。
しかし、こういった状況を外から見ていると、いつもこう思う。
「言わなけりゃわかんないからミスったんだよ」
「相手の考えや気持ちを察する能力」は、日本人ならば兼ね備えているはずだ。
以前の私は、この能力が低い人間を軽視していた。
皆が口に出さずとも共通理解しているようなことを、理解できないのが信じられないからだ。
まさに、「そんなの常識だろ!」っていう感じだ。
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コミュニケーションの「ズレ」
しかし私は、あるセミナーに参加して考えを変えた。
それは、プレゼンテーション能力を高めるセミナーだった。
そこで、「コミュニケーションはズレる」ということを学んだ。
私は今まで、コミュニケーションは「ズレない」という前提で物事を考えていた。
しかし、コミュニケーションは「ズレる」という前提で物事を考えてみると、こっちの方が断然しっくりくる。
ビジネスシーンでは、ちょっとしたコミュニケーションのズレが日常的に発生している。
なんとなく「ズレているな」と感じることなんてよくあって、それを放置しておくと、時々トラブルに発展するわけだ。
で、「あの時、なんか嫌な予感がしたんだよな」と後悔したりする。
以前の私は、コミュニケーションは「ズレない」という前提で物事を考えていたので、この「ズレ」を防ぎようがないと考えていた。
時々は、こういったエラーが発生するものだと。
しかし、「コミュニケーションはズレる」ということを学んでからは違う。
「ズレる」という前提からスタートしているので、「ズレない」ように努力をするようになった。
一つ例を挙げれば、「定性的表現」と「定量的表現」を使い分けるようになった。
どちらの表現が優れているというわけではないが、「定量的表現」の方が圧倒的にズレを排除できる。
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また、「嫌な予感」に対してのアンテナがより敏感になった。
相手とコミュニケーションを図っている時に、「ちょっと伝わってないかも」と感じたら、説明を重ねて必ず理解してもらうようにしている。
以前ならば「伝わってないないかな」と思いつつもスルーして、トラブルに発展すれば「そんなの常識だろ!」って言っていた自分がウソみたいだ。
「ズレ」ないようにする難しさ
しかし、コミュニケーションは「ズレる」という前提に立つと、コミュニケーションの難しさに直面する。
こんなエピソードがあった。
他部署の人間Aが、私に仕事の相談をしてきた。
A「この仕事って、私さん詳しいですか」
私「どんな内容ですか」
A「~~~~~~~~~~~~」
私「その内容でしたら私の仕事にも関わりがあるのですが、書類作成等の手続きに関して外部業者に依頼しているので、全くタッチしていないんです」
A「そうですか。では外部業者の方に話をしてみます。また何かあれば協力お願いします」
私「お役に立てなくてすみません。協力できるところはお手伝いさせてもらいますので遠慮なく申し付けてください」
後日、Aの仕事が滞っているという情報が耳に入ってきた。
どうやらAは、書類作成は外部業者がするとして、それ以外の準備などは私が引き受けたと思っていたようだ。
しかし私は、準備はAがおこなって、書類作成は外部業者へ依頼するようにアドバイスをしたつもりだった。
結果的に大事には至らなかったが、「ズレ」に気を遣っていても時々こういうことが起こるので、ほんとうにヘコむ。
仕事の手順まで突き詰めてアドバイスしたら良かったのだが、互いによく知らない間柄なので、よそよそしいコミュニケーションになってしまった。
この失敗で学んだことがある。
『親しくない相手ほど「ズレ」を解消しておけ』
コンテクストとコミュニケーション
相手との意思疎通を図るには、前提や共通理解が大きく影響している。
その前提や背景、文脈のことを「コンテクスト」と呼ぶ。
そして、相手との共通理解が少ない文化と多い文化が存在する。
例えばアメリカは、「低コンテクスト文化」だ。
多人種国家なので、宗教や価値観の差が大きく国民全体の共通理解が得にくい。
だから、初対面の相手でも身振り手振りを交えてフレンドリーに自分のことをアピールして、共通理解を得ようとする。
一方、日本は高コンテクスト文化だ。
単一民族で共通理解を得やすい。
高コンテクスト文化は非常に便利だ。
互いの頭の中に共通のイメージを浮かべながらコミュニケーションを図れるので、サクサク流れる。
極端な例を挙げると、説明が困難であろうサザエさんのヘアスタイルを伝える時に、長々と説明しなくても「サザエさんみたいな髪型」と言えば、誰もがそれを頭の中に思い浮かべることができるのだ。
しかし、不安な点がある。
会話などの言語的コミュニケーションより、表情や仕草などの非言語的コミュニケーションを評価する風潮だ。
「相手の考えや気持ちを察する能力」は、素晴らしいと思う。
しかし、相手の表情や空気を察して動くことを、過剰に評価するのはいかがなものか。
テレパシーの飛ばし合いみたいなコミュニケーションで構築される人間関係は、非常に窮屈だ。
まとめ
私は、「言語的コミュニケーションを重視」した「高コンテクスト文化」を望む。
双方が、頭の中で共有理解できているイメージに、以前記事で紹介した「報連相」「アサーション」「定量的表現」といったコミュニケーションスキルを用いて、ズレを修正すれば、最強だと思う。
それには前提や共通理解が必要だ。
コミュニケーションは「ズレる」という前提や共通理解だ。
でなければ、せっかくのコミュニケーションスキルも役に立たない。
日本は「高コンテクスト文化」から「低コンテクスト文化」へ移行している。
要は多様化しているということだ。
多様化が進めば、日本人が得意とするテレパシーの飛ばし合いが難しくなる。
「自分の考えが相手に伝わっていない」と感じていながら放置することって、誰でも経験あると思う。
その時、コミュニケーションをとる目的は何かを考えてみよう。
相手に自分の考えを伝えることが目的ならば、察することを相手に求めるのは本末転倒だ。
察したり察してもらったりする文化に固執して、「普通わかるだろ!」「そんなの常識だろ!」と言うのはやめて、ズレを修正しよう。
それで、あなたがコミュニケションをとる目的が果たせるのだから。