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「手段の目的化」に陥らないために、主体的にアプローチする視点を持とう

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「目標を達成するための計画なのに、いつの間にか計画通り進めることしか考えていなかった」といった経験ないだろうか。

 

これは、「手段の目的化」という状態に陥っているのだ。

 

あるテレビ番組の話

あるテレビ番組で、日常生活で遭遇した「ムカつく嫌なヤツ」のエピソードを紹介していた。

生まれつき頭髪が茶色の女子学生が、生活指導の教師に「髪の毛を黒くするように」指導されるシーンがあった。

 

しかし、女子学生の頭髪は生まれつき茶色で、ファッションとしてカラーリングしているわけではなかった。

そのことを生活指導の教師に説明したが、教師は取り合わなかった。

 

番組では、この教師が「ムカつく嫌なヤツ」という設定だ。

 

女子学生は悩み、親に相談した。

そして、親からの「黒く染める必要はない」というアドバイスにより、茶色い頭髪のままで登校した。

 

案の定、生活指導の教師が女子学生を問い詰める。

うろたえる女子学生。

ここで女子学生の親が登場する。

 

そして生活指導の教師に対して、女子学生の親は以下のように反論した。

・女子学生は生まれつき頭髪が茶色である。

・茶色の頭髪を黒く染める行為は、「頭髪を染めることを禁止する校則」に抵触しているのではないか。

 

生活指導の教師は女子学生の親に論破された。

この展開に、番組出演者と視聴者は胸がスカッとする。

といった内容だった。

 

私は、「この話、色々おかしい」と感じた。

 

 

手段の目的化

「手段の目的化」という言葉がある。

 

本来の目的を見失い、「目的を達成するための手段」が目的にすり替わっている状態を指す。

 

人間は、「手段の目的化」に陥りやすい。

 

特に日本人は、そうらしい。(本当かどうか。。。)

日本人は、何かにつけて「道」を極めたがる。

茶道、花道、武道、あげく野球道。

 

例えば茶道でいえば、美味しいお茶を飲むだけでなく、美味しいお茶を飲むための「手段」を極めて道とするのだ。

 

「道」を重んじる国だからこそ、無意識に「手段が目的化」してしまう。

こういう話をすると、「極めようとしてるんだから手段が目的化しても別にイイじゃない」「何で手段の目的化が悪いんだ」という意見が出てきそうだ。

 

しかし、それは違う。

 

「道を極める」のは主体的な営みである。

一方、「手段の目的化」は主体性を失った状態を指す。

「主体的であること」と「主体的でないこと」はまったく違うのだ。

 

先ほどのテレビ番組の話。

「染める」という行為は、目的なのか手段なのか。

校則が言わんとしていることは、「風紀を保つために頭髪は黒で統一しよう」ということだ。

つまり、これが目的だ。

だとしたら、染めるどうこうは、単なる手段に過ぎない。

黒で統一するために、黒でなければ黒に染める。

はじめから黒い場合は、他の色に染めるな。

 

しかし、親も女子学生も、何が目的で何が手段なのかを理解していない。

「風紀を保つため頭髪の色は黒で統一する」ことが目的なのか、「頭髪を染める行為を禁止」するのが目的なのかを、自分の中に落とし込めていない。

結果、単なる手段であるはずの「染める」を、目的と履き違えて「イタい反論」を展開してしまったのだ。

 

 

他にも間違いだらけ

更に言えば、「黒くする」というルールがある以上、その組織に属しているのであれば「黒く」しなければならない。

「生まれつき」など理由にならない。

 

英語で会話する組織の中で、生まれつき日本語だからという理由で英語を話すことを免れることはできない。

「生まれつき頭髪が茶色い」は、本人が考えてるほどのハンディではない。

 

「生まれつき頭髪が茶色の人間もいるのだから、校則自体がおかしい」のであれば、校則を変えるべく活動すれば良い。

「生まれつきはセーフ」というマイルールに、「人権」のエッセンスを絡めて主張する方が卑怯だ。

 

繰り返すが、自分が正しいと思うのであれば、校則を変える活動をすればよい。

「そこまでやるつもりはない」のであれば、組織を構成する一員としてルールを遵守すべきである。

 

また、生活指導の教師は、ルールを遵守させようとしただけである。

番組では、「ムカつく性格、人柄」「ムカつく指導方法」というニュアンスを濃く出していた。

だとすれば、女子学生も親も、教師の性格や指導方法を問題にすればよい。

「生まれつきの茶色」を蹂躙されたことの問題と、ルールの問題は別だ。

 

このように、番組製作者も胸がスカッとした視聴者も、問題の解決に向けたアプローチを、いろいろと間違えている。

 

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主体的なアプローチ

では、なぜ間違えるのか。

答えは、先ほど述べた「主体性」だ。

 

校則を主体的に捉えておらず、「縛られている」「押し付けられている」と感じているから、「手段の目的化」に走るなど、アプローチの仕方を間違えるのだ。

 

校則を主体的に捉えて、自分にコミットさせていれば、「頭髪は黒でなければならない」というアホらしいルールに対して、正面から解決しようとするはずである。

 

これは、社会でも同じだ。

コンプライアンスの問題も主体的に捉えるかどうかで大きく変わる。

 

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また、会議に対してよく耳にする意見もそうだ。

「これは意味のない会議だ」

 

確かに、意味のない会議はある。

しかし、それは整理統合して、スマートなスケジュールにしたらどうかという視点での話だ。

似たような議題について話している会議が縦割り組織であるがゆえに複数存在するのであれば、統合した方が良い。

 

しかし私がよく耳にする、「これは意味のない会議だ」のニュアンスはそれとは違う。

会議の「運営」ではなく、「内容」についての言及だ。

 

なぜ、「内容」について意味のない会議だと考えるのか。

意見交換の場でありながら、結局は上司からの上意下達だからか。

だとすれば、「手段の目的化」に陥っていないか振り返ってみる必要がある。

 

本来の目的が、意見交換により方針を決めていく会議なのであれば、上意下達の場になっている時点で、「目的」から逸れている。

そして、単に意見を抽出するための手段にすぎない「会議を開くこと」が、目的にすり替わっているはずだ。

 

会議を開くために人を集めたりネタを探しているのであれば、それは間違いなく「意味のない会議」だろう。

では、「意味のない会議だ」と発言する者は正しいのか。

 

私はそうは思わない。

私には、会議を正常に運営させることをサボっているように見える。

「意味のない会議だ」と発言する者には主体性が欠けているのだ。

 会議に主体的に関わることをサボったあげく、「手段の目的化」をこじらせて、認知的不協和を解消するために「意味のない会議だ」と発言しているのだ。

 

 

 

まとめ

会議やミーティングは発信力がある者が有利だ。

上司がいなければ上意下達がなくなるのかと言えば、そうではない。

リーダーや先輩が上司よろしく振る舞うだけだ。

 

そんな中で、「手段の目的化」を回避するにはどうすれば良いのか。

答えは簡単だ。

会議の場で、自ら意見したら良いだけだ。

会議をトップダウンからボトムアップに変えたら良いのだ。

 

とは言え、会議の場で簡単に発言したり、「在り方」を簡単に変更できるのであれば、苦労はしない。

 

まずは、「主体性」を意識するところからはじめてみてはどうか。

 

「目標を達成するための計画なのに、いつの間にか計画を予定通り進めることしか考えてなかった」

という「手段の目的化」を回避する、第一歩になるだろう。

 

 

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